リンゴが1個5000円だった頃 [歳時記]

8月20日(木)

初ものと終いもの

先日、もう旬はすぎたであろうスイカを買いました。道端の農産物直売所で、中型スイカは500円。スーパーで買うよりかなり安い。東武動物公園北側ゲートを出たところ、帰り客が車を止めて買っていました。

カット売りがあまり好きでない私は、小さいサイズのスイカを買います。したがって切ってみなければ、中身の熟度などはわからない。(まだ、台所にごろっところがしている状態です)

そして、昨日は、早生ものの林檎を1個だけ買いました。230円。まだ結構高い。いや、相当高い。リンゴもスイカも、私なりの思い出があります。誰にも、一つや二つ、好きな果物にまつわる小さな思い出があるのではないでしょうか。

リンゴが5000円だったころ

昨日の新聞に、戦中「主食優先」という国策で切り倒されたリンゴの木のことが1面で紹介されていました。

流行歌は、その時代の世相や人々の本音を映し出す。

1944年の晩秋、青森の「食糧増産隊」の青年たちによって、丹精込めて育てられた林檎の木々が切られた。2週間で3600株が切られた。

太平洋戦争の戦況は悪化し、国民の食糧はなくなっていった。1941年には林檎の木を新しく植えることが禁じられ、1943年には「林檎園耕作転換令」で、芋などへの生産転換と切り倒しの命令が出た。

「林檎を作るやつは国賊だ」と、大政翼賛会が叫んでいたという。地元の警官は火の見やぐらに上り、双眼鏡を使い、農家が林檎の作業をしていないか監視していた。

1942年には、21万トンだったリンゴは、終戦の年には1割にも満たない1万8000トンに激減、リンゴ農家は壊滅にひんしていた。

苗から育てなおし

詩人ノサトウハチローが「リンゴの唄」を作り、終戦の年の暮からヒットした。

[るんるん]リンゴは何にも言わないけれど、リーンゴの気持ちはよーわかる~ あの歌詞は、そういう状況から生まれたのだった。

実は、「リンゴの唄」は、戦時中に生まれたそうだ。だけど、軍部が「軟弱な歌だ」と、歌うのを禁じた。

戦後何もなくなった焼け野原に、それまで勇ましいだけの軍歌に飽き飽きしていた人々は、可憐で希望にあふれた「リンゴの唄」に自分の気持ちを同化させた。

大戦中、「贅沢品だ」と生産を禁じられた林檎の生産が、一からはじめられた。

「リンゴの唄」をうたった並木路子が、かごに入れたリンゴをかごから出して公会場の観客に配ると、もらった幸運な客は、その年の幸運をつかんだような気持ちになり、もらえなかった人は、明らかに肩を落としたという。

国民はリンゴが食べられる時代が戻ってきたことを心から喜び、立ち直っていったのでしょう。

当時、リンゴは5円。今のお金に換算すると5000円にもなるという。戦時下、強制的な生産抑制で、極端な品不足だったから。

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私が小さな子どもだったころ(昭和30年ごろ)、毎年冬になると、大きなリンゴ箱(木箱)に入ったリンゴが、国鉄・栗橋駅留めで送られてきた。上野の親戚が毎年のように、送ってきたものだった。

あのリンゴは、戦時中疎開させてもらったお礼みたいな気持だと、大人たちのお茶飲み話で、聞きかじった記憶がある。大きな木箱のリンゴは、その親戚の大伯父が亡くなるまで続いたような気がする。当時の銘柄「国光」、大きくてしっかりした味のリンゴだった。幼児の歯でかぶりつくのには、多少無理があった。

――出かけます


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