憲法記念日・集団的自衛権 [歳時記]
5月3日(土)
憲法記念日
憲法記念日ということで、全国の団体、グループで、「憲法を学ぼう」「憲法の成り立ちを知ろう」という内容の集会が開かれることにが多いと思われます。
ところが、今年は特に、自治体の後援が少なくなっているという。各地にある「9条の会」などは「なぜ、今、後援がもらえないのか」と、自治体の過剰反応に戸惑っているという。
自治体が(これまで出していた)「憲法を学ぶ」等の集会への後援記載、なぜ躊躇するようになったかといえば、政府の動きと関係している。
集団的自衛権の容認の方向にかじを切った安倍政権、これは憲法を変えないで、その解釈の幅を持たせようというもの。憲法を変えないといっても改憲にきわめて近い内容になっていく事への自治体の戸惑い、それゆえに無難に過ごしたいという表れではないか。
この方向で今まで出していた〈後援〉の文字を消した自治体(近くでは千葉県白井市など)の言い分は、「政治的中立から」の一点張り。
こういう集会が政治的中立ではないのか、といえば国がいちいちそんな集会に文句は言わない。(実際そうだ)、じゃ、なぜ、ダメになったか。つまり、市民(の声を受けた議員も)の一部から「そんなことやらせていいのか」といういちゃもんが煩わしいから、事前に後援を取りやめようということなのだ。
こういう雰囲気になると、取りつく島もない。「政治的中立」をシカとして、胸を張って言うようになる。根拠がなくてもなんでもそうなってしまうのが自治体の体質。要するに、「後援」から外れておけば、後で責任を追及されることがなくなる・・。
まぁ、禁止するとか、場所を貸さないとかいうのではない。びみょうに「後援」しないという自衛手段で、些細なことですが、これこそある意味「集団的自衛権」。
で、「後援」を取りやめる県、自治体の「後援」できない理由が、記述で微妙に変わっているそうです。
政治的目的をもってする集会 → 政治的色彩のある集会 色彩って・・・? まことに微妙で、その場の雰囲気でNO、です、といえるほどです。
だから、「認めておいて」・・・
その説明に、国(政府)は、必ず、「9・11」のような衝撃的な事件を出す。日本国民にも、アメリカの貿易センタービル2棟に飛び込んで破壊した2基の旅客機の映像が鮮明に残っている。
ああなったらどうする?と。
「9・11」のあと、アメリカがアフガン攻撃をする戦争に突入した。この時も日本は、戦争地域に行かないで、海洋上で船と船が近接し、太いパイプで燃料を補給してあげるということでアメリカに協力した。
ああいうことしかできない。安全保障、日米同盟から言っても、もっと求められていた、と。
だから、「集団的自衛権を認めて、必要なときに協力国を助ける仕組みを作っておかなければ」「容認しておいて、その時、その時のケースで、国会が自衛権の行使を決断すればいい」「それもできないのではだめだから、集団的自衛権の行使を容認すべき」という論法になる。
しかし、なぜ、日本は戦争しないと決めたかというと、今何とか協力したいといっているアメリカとの戦争に負けて、アメリカが落とした原子爆弾の被災国だから、戦争を永久放棄することに決めたわけです。
そこん所は、日本の原点だから、アメリカに対しても譲れない、この1点を主張するべきなんです。
同じ理由で、原子爆弾の被災国だから、放射能汚染で人間がやられる原子力発電も見直しをするべきなのです。
シンプルに考えればいい。ことが複雑になればなるほど、人間はシンプルに立ち返るってことじゃないですか。
改憲について
9条を含む、日本国憲法を変えようとする動きは、小さくなる気配もなく活発だ。石原慎太郎氏は「アメリカに作ってもらった憲法なんですよ!そんなものいらない。日本人の誇りとして憲法を変えるべき」といっている。
アメリカは日本の敗戦時、「もう二度と日本は戦争をしてはいけない」と思って、憲法文を起草したわけですよ。
とんでもない、そのころと今の世界は全く違う。おまえは馬鹿か、といわれそうです。 しかし、それは日本が日本を見失って、世界の現状に付き合っているだけだ。
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