市民派議員の灯を消すな② [男女共同参画]

9月2日(月)

市民派議員の灯を消すな

昨日の八潮市議選挙の、仲間の「選対」には県内外からたくさんの応援が集まっていた。応援も選対も女性が8割以上というのも、この候補の特徴といえるでしょうか。彼女は、「フェミニスト議員連盟」など広域の組織の代表も務め、女性の活動の掘り起しにも力を注いできた。また、市民派議員として「草の根」的にも休まず突っ走ってきた。

出発式の最初、矢澤候補者の議員活動を最初から後援してきた「後谷診療所」医師の高木宏子先生があいさつした。その中で、「日本の国が大きく右傾化している。数がものをいう世界に戻りつつあるようだ。今こそ生活に密着した市民派議員の働きが必要ではないか。市民派議員の灯を消すな」と訴える。

本当にそうだと危機感を持っている。力は弱いが、「現場」を大事にし、新しい動きに敏感な市民派議員、女性議員が減ってきている。世界的に見ても、生活者視点が後退し、経済優先で“単”に強い国が叫ばれている日本。“単”にといったけど、一見といってもいい。“一見”強い経済を目指していようが、生活者、消費者に支えられなければ砂上の楼閣に過ぎない。さらさらと崩れる運命ではないでしょうか。

一つの家庭の中で、子ども、若年層、中高年、高齢者が安心して暮らしていけること、このバランスが取れるのには、きめ細かい政策で支えるしかない。

八潮市では、3つどもえの選挙で、もしかしたら女性の議員が少なくなることもある。女性議員、市民派議員の後継者が見つからない、ということにも危機を感じて仕方ない。

「3歳児神話」に見る保守思想

「東洋経済」8月31日号は、「ワーキングマザー」の特集。その中のあるページに、≪3歳児神話≫について同感できる記事がありました。

〝年間抱っこし放題”の文句で、安倍首相が掲げた「3年間育休」。これに当のワーキングマザーが異を唱えたのは、育児=母親という旧来の固定観念だ。

3歳までは母親が子育てをすべきという「3歳児神話」の考え方は、母性を強く意識し、全面的に頼っている。子供の成長には3歳までが大事で、それには育児の適正をもった母親が専念するべきで、そうしなければ子供の成長にひずみが生じる。こうした「女は本来家にいるべき」という思想は保守的勢力に根強いとされている。実際、そういう立場の人が、(あたりまえだ)的に口にするのを、黙って聞いていたことがあった。

時代に合っていない≪専業主婦志向≫

「東洋経済」記事から抜粋::実は日本の長い歴史上、専業主婦という概念が主流になったのは、戦後の高度経済成長期の1950年~70年代の短い期間なのである。「男は会社、女は家」というライフスタイルが核家族化とともに定着した。

かつて農家の嫁は、亭主と一緒になって朝早くから田畑を耕し、赤ん坊は祖父母や村落の共同体で育てられた。みんなで育てていたのだ。

清泉女学園大学の大日向教授・人間社会学は「発達心理学からすると、幼少期の大切さは否定できない。しかし、子どもへ注がれる愛情は母親以外にも、父親、祖父母、保育者の愛情も必要。実証的データに基づいた議論が必要だ」といっている。

専業主婦の子育てを否定するものではないです。より重要なのは、専業でも共稼ぎでも、それらが選択肢として与えられ、個々人が強制されることなく選べる、ということではないか。」--ここまで記事から引用

人口構成でも、専業主婦の半数近くが団塊世代で60歳以上なのだ。この時代は、稼ぎ手である男性が忙しかった。忙しかったけどそれに見合う給料が約束された。おのずと核家族の中で、母親が家にいた。

この時代、女性(母親)は家に居て子育てをしていた。高度成長に伴い、公害、健康上問題となる食料も出ていた。そういった問題に対して、家にいる女性たちが敏感だった。女性たちは「生活協同組合」を作り、暮らしのリーダーになった。安全な食料、暮らしの用品などに、主婦の力が役に立った。「生協」では班を作り、共同購入をし、情報を交換した 。日本の商品が向上していった。

こういった女性たちが、暮らしの質を向上させた時代は、実は高度経済成長の反面でもあったのだ。

経済構造と密接な関係がある女性の立場、今、男女のどちらかが家にいて子育てをするという余裕はない。低賃金でどう子育てをしていくか、という社会で、もう「生協」の共同購入もくらしの質の向上も、できない。維持していくのがやっとで、日本経済を持ち直すためには更なる我慢が強いられているのだ。

安倍首相が、女性政策を成長戦略に位置付けたのは、間違いではない、と思う。しかし、固定観念を取っ払わなければ、成長に結びつかない。グローバルで通用しない。

湯沸かし室で「余計なお世話・・・」と

実態は、ほとんどの女性が「責任ある立場になりたくない」といっている。それなのに、「本来の女性の持つ力を活用すべき」といっている私などは、多くの女性たちを、湯沸かし室やトイレで「余計なお世話よ」と白けさせているのかもしれない。

しかし、この根底には「男性が働きやすい環境のため」知らず知らずに固定観念で女性をとらえていることもあることを、もう一度考えてみたい。

後進がいない現状

市民派の女性議員の減少、(めんどうなことはいやだ)と後進が育たないことの背景に、女性自身の「責任ある位置より居心地いい位置」を選ぶ傾向があるのもわかっている。

「やさしい」とか「かわいい」「感じいい」とか、女性活用を単に「イメージ向上の道具」にされていて、それに気づかない(気づかないふりをしている)女性が、まわりまわって女性の立場を弱くしている。〝誰かがやってくれる”に、多くは期待できない。

家庭を任せられ、収入の一助も考えなければならない女性たち、忙しすぎるのだ。補佐的仕事のほうがずっとこなしやすい。

市民力もそうだ。行政に重用された女性参画に、成長戦略もグローバル化も程遠い。なぜなら、女性職員そのものが先頭に立ったり、意思決定していないではないか。

政治が大きく動かされようとしている。大政翼賛会化しているのかもしれない。

今こそ、生活者のすぐそばにいる、市民派議員のともした「灯」を小さくしたくない。 


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