<抑留の日々>を語り継ぐ [地域発]

9月12日(月)

戦争体験を今、聞いておかなければ

9月9日(土)に、進修館研修室で行われた「戦争体験を聞く」に出かけました。これは、杉戸・宮代の共産党関係(適切な表現かどうか分からないのですが)の平和グループが継続的に実施しているものだそうです。これまでも案内をいただきましたが、昨日は、知人が参加し、経験を語られるというので、遅れて申し訳なかったけど初めて参加しました。

わたしが行ったとき、ちょうど知人Kさんが敗戦後の「抑留されていた頃」をお話されていました。

「マイナス35℃になれば、労働作業はナシになるが、それ以外は毎日毎日労働が待っていた。ろくな食べ物もない収容所では何人もの戦友が、故郷に帰る日を夢見ながら死んでいった。」

「シベリアは、夏と冬だけです。夏は確かにある。しかし、あとは長い厳しい冬がずっとあるだけです」

「何年かして、やっと日本に帰れることになった。ナホトカまで来て、看護婦達も手を振って送ってくれているところ、自分の名前が呼ばれた。おまえは仕事振りが優秀であったので、もう少し残ってもらうことになった。ここで抑留兵の模範を示し、いずれ、日本に<敵前上陸し>先頭に立って民主主義を広める要員になれと言われた。次に帰れる日はあるのかと思った」と。

一応30分の持ち時間はあったのですが、とても語りつくせる時間ではありません。5人の語りべは「もっと時間がほしい」と口をそろえて言っておられました。

5人の皆さんは、〇男性・・・抑留時26歳(現在93歳)  〇男性・・・抑留時22歳  〇男性抑留時20歳  〇女性・・・敗戦時15歳  〇男性・・・抑留時20歳 という方々でしたが、当時のことは鮮明に覚えていらっしゃいました。

もうひとりの知人(この方もKさん)は、「抑留されていた時、使っていた手袋です」と黒くなって古ぼけた手袋を持ってきていらっしゃいました。「この手袋の内側にはニクロム線があって発熱します。モールス信号などを打つとき、手がかじかんで思うように打てない。そういう時使うんです。配給されたものが、没収されようとした時、壁に突っ込んでおいたのが見つからずに済んだ。思い出に持って帰ったんです」と。

人生で一番過酷で一番鮮烈な時間だった抑留時代。大変な時期をよくぞ生き残ってこられました。この会もすでに17回目。語りべの方々も高齢化しています。ぜひ、聞いておきたい「戦争の現実」、残された時間をもっとお聞きしたい。

飲みながら、よく抑留時代のことを話すKさん。「身体から外にでたモノは、みんな凍るんだよ」「熱が出たヤツは病気だといって2、3日休める。オレは熱がでたから助かった。熱もでる元気がないほど弱った人は休む間もなく死んだ」・・・こういう話を、断片的に、冗談交じりにじゃなく、本当に向き合って聞いてみたいものです。


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