ハウツウ「会議」2 [活動]
5月12日(日)
青木 将幸著「ミーティング・ファシリテーション」の中に、行政主催の「市民参加の会議」はどうあるべきか、のページがある。
1、「結論ありき」のケース
一番残念なのが、「市民参加で話し合うが、結論は決まっているケース」です。会議には「儀式としての会議」と「本質的な会議」があると本の中でいっています。
既に人事や事業などで「なること」が決まっているのに、手続きや儀式としてやる会議、こういうのが多い。これは行政でも(いかにも市民が仕切っているように見せかけた下請け機関がやる場合も含む)、民間にでもある。(下請けか、行政ダイレクトかは、雰囲気が違うくらいのものだ。こんなのにごまかされてはいけない)
最も多いのは、補助金団体が、(補助金を受けているゆえ)どうしてもやらなければならない総会などの会議などに見えます。
これは、儀式ゆえ、質問も出ない〈シャンシャン会議〉。(私も過去に、実にくだらない総会もどきに付き合ったこともあるのですが・・・)。本では、事務局が強い団体、形式化して活力がない団体では、理事会や運営委員会でも「儀式としての会議」になっているという。(ある、ある、わかります、そういうの)
本質的な会議
結論が決まっていないのが「本質的な会議」で、どのように進めていくべきか、たくさんの意見の中からいっしょに決めていこうというもので、市民参加の場合、これが〈あるべきスガタ〉です。
たとえ、事務局が想定した流れと違っても、役所やその下請け機関のシナリオに乗らなくてもいい、むしろ活発な意見のもとがそこにありそうです。
2、長い説明ばかりのケース
膨大な資料と長い説明だけの会議(あります、そういうのも)。本では、話し合う議題について共通認識は必要だが、時間配分を考えたら、コンパクトにまとめておくべきと言っています。
そうでしょうね、そうでないと出席者は、事務局などから長い説明を聞いただけで会議に参加した気分になってしまう。せっかく各分野で活躍している人を総花的に集めても、その力を引き出せないで終わってしまう。そういう実力のある人も、ほどなく(ここでは無駄なエネルギーを使わないで、アリバイ的に居たほうがいいのか)興味をなくす感じです。
3、「参加者が集まらないので動員する」ケース
残念な会議の<最たる>ものです。私など、こんな会議やっても意味ないのではないかと思ってしまいます。こんな会議で考えたイベントなど「やらされ感」たっぷりになるでしょうネ。
(本のなかで)、参加者が集まらないのはどうしてでしょうか?
①本来参加してほしい人は仕事や生活で忙しい。②本来参加してほしい人に、会議開催の適切な呼びかけが届いていない。 ③本来参加してほしい人たちにとって、都合の良い時間・場所ではない。④これまで「結論ありき」や「説明が長い」会議ばかりで、まともな市民参加会議に出てこなかったので期待できず、「またやっているのか」とあきれている。
と、手厳しい。が、うなずけます。
とりあえず「そろえる」のはやめましょう。うんざりです。いつも言っているのですが「顔がワレている」んですよ。(耳の痛いことを言う人を除いたりすると、結果としてレギュラー陣がいる!)。行政や下請け機関が、「この人を入れたほうがいい」と思っている人は、もう、とうの昔に住民には(ああ、またあの人・・)と思われているのを、行政や下請け機関は気づかないのか。(あちこちからお呼びがかかり20年も重宝がられている人もいるにはいる。本人の<生きがい>に頼っているわけ)こういう人が、目覚ましい意見や発想をもっていることは・・・・・少ない。
いろいろ中身を紹介すると、うなずきたくなることばかりで“マズい”。この辺でやめます。でも、この本、おもしろい。参考になる本です。
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