過去を背負って戦ったボクサー [日常]

10月28日(日)

刺青ボクサー

背中一面に彫られた刺青(試合をやっていた頃のポスター)。今日、千間台のフリースクール(長女の勤務先)で開かれた元ボクサーの話は、面白かった。そしてあったかかった。

そのボクサーの名前は、川嵜竜希(たつき)さん。試合会場をいっぱいにするほどの人気ボクサーだったそうだけど、私は知らない。世界タイトルとか、日本タイトルとか達しないレベルのボクサーだったんでしょうか。しかし、その人柄で人気があった。わかるなー、本当に純で愛にあふれた人だった。

こんなやさしい人が悪かった?

でも、彼の過去は壮絶だった。彼は現在、竹の塚で「タンタンファイトクラブ」を主宰し、その一方で、中学校などでの講演をこなし、自分の過去を語り、次世代への確かなバトンを渡そうとしている。笑顔がいい。やさしい。人柄が人をひきつける。おそらく「悪」だった頃も、人柄の素直さで、そのすじでは愛されていたんだろう。

ボクサー.jpg

昭和47年生まれ、今年40歳。

野球少年だった。父は電気工事屋。小学校3年の時、母をガンでなくした。当時、父親は、日曜日のたびに、ガンに効くといわれた「さるのこしかけ」(れいし)を山にとりに行ったり、そのドリンクを買ったりと、末期がんを治そうと必死だった。3歳上に姉、6歳下に妹がいる竜希(タンタン)少年は、子供だけで家庭に取り残された。

母親が死んだ。竜希少年は、野球とケンカの毎日だった。父親は荒れた。ぶん殴られるので、しょっちゅう家出した。児童相談所に保護されることが多くなった。

でも、学校は大好き。先生とも仲良し。父親とも時々仲良し。近所では「タンタン中学校にいったらツッパリになっちゃうね。」といわれた。「オレはそういうの大きらいだったから、(ならねーよ、そんなのに)と思っていたけど、なっちゃたんですよ」。でも、まじめなツッパリになろうと思った。(なんか、彼の話を聞いていると、わかる気がするんです)

中2の時、「そうだ、パンチパーマをかけなきゃ。そりも入れよう」となぜか思ってやっちゃった。本当のツッパリになっちゃった。

少年法の虞犯でつかまる。鑑別所に行く。保護観察で1ヵ月半とか。でも、学校は好きだった。先生にも愛された。あるとき臨時で来た社会の先生が大好きになり、先生を喜ばせたいと猛勉強したら、テストで96点取っちゃった。「俺、なんでもいっしょうけんめいやるの、好きなんです」

少年院の前で誰が待っているか・・・

中3で、3回目の鑑別所。その後、群馬県赤城の少年院に入る。ソコを卒業して、はれて<やくざ>。なぜ、こうなるか・・・。よく聞く話だが、少年院から出てくると、門の近くにはチンピラが待っているそうだ。行き場のない少年達はソコからやくざの「組」に直行することが多い。・・・ここで、誰が待っていてくれるか、、、で(その後)が決まってしまうのだ。

組事務所ではチンピラやくざがいて、トランプで遊んでいた。コーラもくれた。泊まれた。その日から、事務所から学校に通った。

「組」は、零細企業の組だった。(笑) 大手の「組」に吸収されそうになったがとどまった。だから良かった。親分について、運転手などやった。親分大好きだったから、どこで活躍しようか、ソレばかり考えた。活躍するということは・・・そんなことわからなかった。

ケンカが強かったから用心棒みたいに思っていた。ピストルも持たされた。17歳の時、自宅団地の勉強机の後ろにピストル、実弾108発を隠していたのを、父親に見つかり、警察が来た。

今度は、小田原の少年院に入れられた。警察のおじさんが「おまえ、108発というのは、108人の人の命を奪えるということだぞ」といった時、「でも、はずすこともあるし・・」といって、「ばかもの!!」とおこられた。

夢を持って、真剣にやくざをやった。やくざは「家族」だった。みんなのことを大好きだった。でも、親分の運転手の月給20万円はもらったことがなかった。誰かに遣われた。<しのぎ>のない自分は「このままでは(やくざで)出遅れちゃう」と思った。背中いっぱいに刺青も入れた。

薬物中毒

違う「組」の友達もできて電話番号交換した。その友達が「シャブ買えない?」と聞いてきた。親分の運転手くらいしかやらないけど、聞いたことある。ほかの組員に聞いたら「ある」という。20g頼まれたけど、30g買って、10g自分のところに置いておいた。持っていると気になって、あるときやってみた。苦しくなっただけだった。だけど、次第に続けるようになった。

いろいろな薬物を取り入れ、売った。<タンタンはドラグストアーだな>なんていわれた。(笑)自分でもやった。ブラックライトの暗い部屋で薬をやっていると、神様が出てきた。部屋では、曲はかぐや姫を聴いたり(笑)

MDMA(押尾学が捕まったやつです)を買いにアメリカにも出かけた。15,000錠も買ってきた。薬は、「止められない、良くて一生刑務所、悪くて人知れず死ぬかだ」といわれるけど、そのとおりだ。その橋渡しをやっていた。今考えるとおそろしい。

まじめに、何でもやっちゃう。この人の話を聞いていると、すべては、愛されたい、家族になりたい、からきているように思う。なんでもいっしょうけんめいなのだ。

どうしてボクサーに

主催者が「どうして薬物漬けの生活からボクサーになったかのか」と催促がでた。彼「中学校の頃から、ボクシングジムには通っていたんです。好きだった。でも、学校が途切れたり、児童相談所にいったり、鑑別所に入ったりで、中途半端だった」

そうこうしているうちに、彼女ができた。父親が末期がんだとも効かされた。ボクシングにいっしょうけんめいになった。試合が決まり、減量中に父親が死んだ。練習に気持ちが入らなかったけど、機械的に身体を動かして乗り切った。

ボクシングで試合に出るようになると、刺青のボクサーの試合は人気があった。刺青で人気じゃなくて、彼のにんげんせいに人気があったのだろう。

チンピラやくざで、薬物中毒だった人だけど、実際の彼は、本当に純で、何事にもいっしょうけんめい。「家族」が大好きなのだ。あんなに愛されたいと思った彼に、今、愛する家族だできた。奥さんの優華ちゃんと、小さな子ども達(女の子と男の子がいる)が大好きなのが話の中からこぼれる。

会場のフリースクールには、15人ほどしか彼の話を聴く人はいなかった。でも、今までになく感動した。

たしかなバトンになる

彼は強いボクサーじゃなかった。ボクサーの定年が37歳ってはじめて知った。もうボクシングはできないけど、地元でスポーツクラブをやっている。

薬物をやると、7割は抜けられないでもどってしまうと聞く。しかし、彼は戻らないだろう。わかる。愛を欲しがって、何事にもいっしょうけんめいだった彼に、今、愛する家族ができたから。

“ここに居る。生きている自分” 過去を背負って戦ったボクサー、のサブタイトルどおり、彼は確かな存在として、“居る” のだ。

次世代に、たしかなバトンを渡そうと、ありのままを話していく。


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