原爆を朗読する小学生17人 [活動]

7月29日(日)

「私たちと原爆」に小学生17人朗読出演

図書館ホールは満席

昨日午後、宮代町立図書館のホールは満席。用事でチョット遅れた私は、壁に寄り添って、心からの<原爆の訴え>を聞きました。目を凝らして照明を落としたホールの中を見渡すと、10人以上の人が立ったりしゃがんだりして聞き入っています。

毎年、この時期に開催されてきた、原爆の語りべ「この子達の夏」。今年で19回目を数えるこの会は、小学生の参加が加わり、3年生から6年生まで17人の児童が参加した。そのうち3分の1が男の子だった。もちろん、朗読で語り継いできた大人の方たちの継続の力、語りかけの力の大きさに拠ることは十分ありますが。

原爆が落とされた「あの日」のヒロシマ、ナガサキの、その瞬間。子どもの目で、心でつづった詩や作文を、その年齢の子たちが読むことには大きな意味があります。

・・・きゅうりを取りに、防空壕を出て行ったお母さんは、帰ってこなかった。青い閃光が走り、轟音がしたあと、防空壕から顔を出した子どもの目に映った景色は、それまでと一変していた。弟も妹も、母も父も、次々にもう帰らないことがわかった・・・

おそらく、朗読する子ども達より、大人たちのほうが、その事情を理解できるでしょう。でも、みんなの前で<原爆>のあの日を朗読した時間は、ずっと心の中に残り、後々の人生に懐かしい、有意義な時間となって残るのではないでしょうか。

19回目となった「この子達の夏」原爆の朗読会。平成のはじめ頃は、こういった会を催すことができなかった自治体が多い中、宮代町はいち早く、市民活動に協賛し、次いで主催側となっていった。いまでこそどこでも普通にやれるようになったが、平成の初め頃は、実はそうでもなかったのです。

H3年、私は、埼玉コープの平和活動の一環として、8月6日広島に行った。原爆ドームのある平和記念公園には、世界中から集った数万人の人でいっぱいだった。

H10年頃からは修学旅行で、原爆資料館なども行く学校が増えていった。

しかし、市民活動ではこういった活動が続けられても、市町村で「反原爆」「反戦平和」の催しをやるのは、すこし特殊なグループと思われているフシがあった。まして、協賛、共催という形では、実現できるようになるにはもう少し時間を要したのです。

その後、一気にこういった活動が<普通>になっていった。

1980年代、「原爆」を語るのは<アカ>

蛇足ではありますが・・・、

本当に、平和活動、反戦活動、反原爆活動を行政が協賛できるようになったのは1990年後半だった。協賛をお願いしても「それはチョット・・・」と、わけのわからない拒否をされたもんです。

1985年はじめから1988年暮れまでの4年半、福岡市に住んでいた。転勤族ばかりの町だった。福岡は先進的な考えがあった。すぐに「生活協同組合」・Fコープに加入した。

生協の役員が回ってきた。なんとなく引き受けた。購買生協は、政治色はゼロです。環境活動、平和活動に、主婦達は生活の中から必要にまかせて参加していった。

ところが、

仲良くなったママ友の中に、福岡県警の奥さんがいた。生協の組合員だったけど、平和活動には尻込みしていた。生協に入っていることさえ、県警官舎では後ろめたかったらしい。

つまり、その頃(たった、25年前ですよ!)生協は<アカ>(共産党系)という色分けで、警察、公安などの家族は生活協同組合に入るのはタブーとされた時代なのです。

九州電力・玄海原発に反対行動

反原発に目覚めたのも、この頃でした。25年前、(多分)玄海原発2号機稼働に向けて少数ではあったが、反対行動をした。繁華街天神の手前にある「九州電力」本社に、抗議行動しました。あまりの少数であったためと、行動ビギナーだった私は、夕方のニュースで映ったらイヤだ、とそればかり考えていましたっけ。

生活や、健康、安心安全なくらしを考えて行動するのは、恥ずかしいことではないのに。


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