大人にならざるを得ないとき [教育]

1月20日(火)

自分以外を守るとき

17日、阪神淡路大震災から20年。「あの時」を想起させる番組がたくさんあった。同じく災害を受けた東日本大震災の被災地の人たちも「あの時」を語った。

石巻市(だったと思うけど)の女子高生が言った言葉が深く心に残りました。「津波が急速に近づいてくる中、中学生だった自分が近所の小学生を連れて逃げた。自分ががんばらないと小さい小学生は津波にのまれてしまうと思った。必死の作業を続け、その時急速に大人になることが要求された」

この少女は、自然の脅威にさらされるなか、自分より弱いものを背負うこと、一瞬の甘えも許されない状況で耐えることを知ることで、否応なく大人にならざるを得なかったと思うとイタイタしい。

対照的に、20歳の若者を見てみよう。成人式を迎えたのだから、確かに実年齢は20歳だろう。カメラに向かってピースをしている希望にあふれた、初々しい若者はどこかあどけない。(急速に大人になることを)要求されていない身の上だからか…。

どちらがいいとか、悪いとか言っているのではありません。希望にあふれた青春時代はあったほうがいい。悩むことの訓練はした方がいい。どちらも、弱者にやさしい大人になるために必要なこと、くらいしか言えない。

「道徳」を人工的につくる

話はそれますが、1月17日の新聞に、「道徳を教えるということ」という紙面があった。そこで作家の石井光太氏の記事があった。

「昔なら戦争で人を殺したお年寄りがいたり、被差別部落の問題が今より顕著だったりして、くらしの中で道徳を考えることができた。現在、その機会が減った以上、教科化によって人工的にでもきっかけを用意することは必要だと思います。

ただ、いじめはよくないとか、誰が考えても当たり前な話をするだけなら時間の無駄です。そんなこと誰だって(いじめる側だって)わかっている。

道徳教育の重要さは、答えの出ない問題を考え続けるところにある。-中略ー 社会に出れば、善悪の判断がつかない問題であふれています。それでも自分でどちらか選択しなきゃいけない。選ばなければ前に進めないわけだから。本当に正しいのか悩み続け、何度も間違えて、後悔して、また進む。そのために必要な勇気と気力を身に付ける訓練が、道徳の授業だと思う」

評価することの意味

同じ紙面に、教育評論家の尾木直樹氏の記事が。

「道徳教育の強化ということで教科にすることが決まりましたが反対です。教科にすると評価が入ってくる。評価されるとわかると子どもの行動も逆に制約を受けるんです。教師に縛りをかけ、こどもたちも縛ることになる。

子どもに規範を与えていくことが重要なのは確かです。でも、問題は何をやらなければならないか分かっていても、実際にはできない子がいることなんです。判断力から行動力にうつせるかどうかが問われている。その段差を埋めるカギになるのは自己肯定感です。自分を肯定できない子は他人を認める感性が育ちにくいからです。

そういう子をどう育てるかシチズンシップの教育が大事だと考えています。道徳教育というと過去の偉人に学べとかいう。教育勅語だっていいところがある。でもそれって過去を向いた教育なんです。これからの市民社会をどう形成するかが大事です」

どちらの記事がいいとか言ってない。どちらの考えも十分わかる。

いえることは、屈折して、悩みを乗り越えられない、それでいて(いいかっこしい)のうすっぺらな14歳の私だったころ、道徳でいい評価をもらえるコツくらいは知っていたんじゃないだろうか、と思ってしまうことです。


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